台風が近づき、雨が強く降る朝、散歩に出た。雨の日はキンモクセイの香りが匂いたつからだ。強い雨で花が地面にハラハラと散っている。なんと美しいこと。風流な気分で、毎朝通う待乳山聖天様へ。ふもとにある公園を通って本堂に向かうのだが、その公園に足を踏み入れた途端、イチョウの木の下に目が釘付けに。茶色の土が見えないくらい、銀杏に覆いつくされているのだ。ここで風流な気分は吹っ飛び、葛藤が始まった。「今年こそ、銀杏は拾わない」と、心に決めていたから。 毎年、たくさん拾ってきては、その匂いに、そして処理の面臭さに辟易していた。マスク、手袋をして、皮を洗い流すのだが、あの強烈な匂いは衣類にしみ込み、家中に蔓延、そして何日も残る。その挙句、乾燥が下手なせいか、炒っても爆ぜてくれず、半分は捨てることになる。この繰り返しを何度やってきたことか。「今年こそやめる」と、数日前に夫に宣言したばかりだ。 それなのに、数えきれないくらい多くの、そしてまっさらできれいな銀杏を目にした途端、興奮してしまった。というのも、こんなにきれいな状態を見たことがなかったから。今までは、だいたい人に拾われていて、その拾い残しというか、おこぼれというか、そういうものを拾っていた。それが、今回は「どーぞ拾ってください」とばかりに、目の前に現れたのである。しかし、待てよ、まずはお参りだ。私はお参りに来たのだからと、心を落ち着かせ、銀杏に心を残しながらを本堂に向かう。そして、5円玉をチリンと投げ、いつものように、色々、お願いをする。家族一人一人の名前を心の中で言って(この世にいる人だけでなく、上にいる人も)、「皆が元気でありますように」そして、膝が痛かったけど治りましたとか、そんな報告をする。たった5円でとにかくいっぱい。でも、この間にも誰かに拾われちゃうじゃないかしらと、気になって仕方がない。心ここにあらず、これって聖天様に怒られるよねなんて考えながら、手を合わせている。あ~、なんてことか、人間が出来ていない。 というのも、自分がもう30年も聖天様に通っているのは、地元だということもあるけど、この聖天様の信仰に心動かされたからだ。その信仰というのが「欲癒祈祷」。簡単に言うと、「欲を捨てろ」ということ。この考えを最初に聞いた時、いいなぁ、かっこいいなぁと、素敵だなあ思って惚れ込んで通っているというのに。ところがどうだ、銀杏ひとつ諦められない。結局いつも通り、お祈りをしてあの場所へ戻ったら、雨が強いせいもあってか、誰にも拾われず、ますます銀杏の数が増えている。ポケットに小さなビニール袋があったので、それで拾い始めると、傘の上にもボコボコと落ちてくる。嬉しそうに拾う自分をもう一人の私が笑ってる。次の人にも残しておこうと思いながらも、大きい銀杏につい手が延びてしまい、結局山ほど拾ってしまった。まだまだだなぁ私。毎年、試される秋である(悦代)。