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ビールのつまみに”自転車と逆上がり”

夏が来ると思い出すのは、小4の夏休み。僕は突然立派な肥満児になっていた。原因はコメの食い過ぎ。それまでは痩せていたのに、夏休み中、朝昼晩のどんぶり飯と、おやつにはぶっかけ氷の冷やし茶漬けを食べ続けたからだ。ガス炊飯器にはいつもたっぷりご飯があり、それでも僕ら兄弟が食べ物のことで喧嘩すると、「あんたたちに、ひもじい思いをさせとらん」と、オフクロに強く叱られた。

オフクロは南洋のセレベス島で生まれ、幼年期に預けられた東京で辛い思いをした。預託先の家の子どもたちが食パンを食べているのに、自分たちはパンの耳しかもらえなかった。悲しくなると、弟と二人で屋根の上に登り、南の空をいつまでも眺めていたという。

そんなことは知らない能天気な小4の僕は、コメを食いまくった。その結果、押しも押されぬ肥満児になったが、ここで思わぬ展開に。新学期、担任の女先生に褒められたのだ。

「夏痩せするのが普通なのに、伊東君は夏太りして偉かねー」

この鶴の一声は、その日の学級委員長選挙に大きな影響を与えた。なんと僕が選ばれてしまったのだ(後にも先にもこの一度だけ)。

                                                          *                       *                          *

夏の暮れなずむ公園で、小さな女の子が自転車の練習をしていた。お父さんが自転車を支え、お姉ちゃんが励まし、母親はその様子を動画に撮っている。父親が支えていた手を放す。「できてるよ。できてるよ」とお姉ちゃんが連呼する。ハンドルを握る女の子の緊張した顔がみるみる笑顔に変わる。初めて自転車に乗れた喜びが溢れて、こぼれそうだ。

そう、僕の中にもよみがえってきた。何か初めてできたときの、何物にも代えがたい喜びが。あの小4の夏、初めて逆上がりができたときの感激が。鉄棒は肥満児にとって最強の天敵。でも、学級委員長たるもの逆上がりの一つもできないでは格好がつかない。そこで、僕は夜な夜な特訓を始めた。小学校の隣にある高校の塀を乗り越え、真っ暗な校庭の片隅にある鉄棒で一人で練習した。泣きべそをかき、物言わぬ鉄棒に当たり散らしながら。もう無理とあきらめかけたとき、突然、重いお尻がくるっと上がったのだ。その瞬間の嬉しさといったら。真っ暗な校庭の片隅で、一人小躍りして叫んでいた。この家族は女の子の喜びを静かにわかちあっていたが、夕食のときはこの話でもちきりだっただろう。そんな楽しい一家団らんを想像していたら、昔、宮崎で見かけた自転車店の謳い文句を思い出した。その「ビールのつまみに自転車をどうぞ」というコピーは、こういうことだったんだ。その夜、僕も”逆上がり”をつまみに一杯やった。

コメント: 3
  • #3

    深川 和郎 (火曜日, 25 8月 2020 00:29)

    私の子供の頃思い出は自転車・逆上がり・スキーですかね。補助輪なしで走れた喜びは覚えています。
    ボーゲンで何とか滑れた時と少し似ているような感じです。

  • #2

    Kyoko (土曜日, 22 8月 2020 18:59)

    自転車、逆上がりは、子供の頃の越えなければならない、大きな試練でしたね。
    私の自転車の思い出は、友達の補助輪付きの新しい自転車を借りて乗り、自転車ごとどぶ川に落ちたこと。申し訳なかったです。補助輪がついていると、ハンドルが効かなくなっちゃうんですよね~。

  • #1

    エミ@カリフォルニア (水曜日, 12 8月 2020 01:31)

    55才の夏から始めた波乗り。
    ジョギングやトレッキングで足腰には自信ありだったけれど、乳がんで両胸を全摘して胸筋ゼロ。大腸の腫瘍もとって腹筋もゼロの軟弱な上半身。密かに筋トレを強化しにつつ1人海へ行く日々。
    もしかしたら一生乗れない、いやいや、そんなことはない・・波にもまれながら葛藤の繰り返し。

    冬や自宅待機やらで、やっと迎えた2年目の夏。
    2週間前、あれ? 横に波に乗っている人が見える・・・私も立って波に乗ってる! 
    5秒にも満たない初ライディング、心の中は嬉しいでいっぱい!
    そして先週、2回目の波の上はロングライディング! 波を横に滑ってる!!
    心の中で、ただ、ただただ口を開いて前を向いてた!

    何かが初めて出来た喜び・・・56才の熱い夏を過ごしています。